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社長のコラム『やってみなわからん!』-私の体験-

No2. 第1章 技術のおいたち(バックボーン)

1.会社設立まで-その1-

投稿日:
投稿者:
大西秀憲
私が23年間のサラリーマン生活にピリオドを打ち、会社を設立したのは45歳である。
コラム「やってみなわからん」はテクノスジャパンについて書くのであるが、それまで の「おいたち」が重要である。
そこで、「テクノスジャパン」設立までの、技術的な背景について書く。

私は兵庫県宍粟郡(現宍粟市)山崎町に生まれた。
現在では、近くを中国自動車道が走り、山崎ICがある。
しかし、当時は鉄道も全くない「陸の孤島」で、そんな「ど田舎」の水飲み百姓の長男 に生まれた団塊世代である。
子供の時から、村の子供らと群れになって遊ぶことを嫌い、とにかく一人で「物を作る(工作)」
のが好きだった。
やがて、電気に興味を持ち、明けても暮れても「ラジオ」作りに没頭するようになった。
そして当然のことながら「無線」に興味が向かい、アマチュア無線を始めた。
(コールサインはJA3MPVであった)
当時の「電波少年」は、無線機器(送信器、受信器、アンテナなど)は自分で作るのが
常識であった。
全て、真空管で作った。
・・・現在でも、製作物の多くを保存している。
学校に行っても、早く帰って「製作の続き」をやりたくて、勉強には余り身が入らなかった。
しかし、このころの「独学による電気の実技」が、私の技術の「芽生え」だと思っている。
・・・従って、私は「理論」を知らない。
しかし、知らないが「作れる」のである。
(不思議でかつ、面白い事に、世の中には「知っているが作れない」人がいる)
長じて、私は「テレビ」に興味を持ち、どうしてもテレビの勉強がしたくなり、大阪にある
テレビの専門学校に入った。
しかし、期待も虚しく、そこの先生の技術レベルは、私以下だった。
つまり、学校で学ぶことは何も無かったのである。
授業に出ても退屈なので、足は自然と「日本橋」に向かった。
日本橋は「関西の秋葉原」であり、電気の街である。
・・・そこに行けば、電子部品なら何でもあった。
当時は「ジャンク屋」が非常に多く、一日中街に居ても、全く退屈しなかった。
ほとんど毎日のように日本橋に通ったので「電気屋の通」になったのである。
このようにして、私は自然と「部品の目利き」ができるようになった。
・・・これが後々、非常に役に立つのであるから、「人間万事塞翁が馬」である。
しかし、私は全く遊んでいたばかりではない。
充分な時間があるのを幸いに、電気に関する資格試験に取組み、ほとんど1回で合格した。
電気の資格は多くが「国家試験」である。
このようにして、私は学校に行かなかったが卒業時には「飯を食うのに必要な資格」は、
ほとんど持っていた。
(例えば、現在保有している資格は第1種電気工事士、無線通信士、第三種電気主任技術者、などなどである。)

社会人になって私は転職が多い。
・・・しかし電気を離れたことはない。
その中の一つで特徴的なことは「店員の丁稚」をやったことだろう。
「町の電器屋さん」の店員を足掛け3年やったのである。
小さな小さな店で、大将と奥さんと私の3人、そして大将の老親が2人いた。 (昔の商店は代表者(主人)のことを「大将」と呼んだ)
朝から拭き掃除、掃き掃除、水うち、そして商品磨き、それが終わればテレビ修理や 電気こたつの修理に廻った。
もちろん、家の「お使い」もした。
要するに店員は「使用人」であり、特に「丁稚」は人間扱いされない。
そして月に5回の集金日(5、10日・・・ごとうびという)があり、これが一番嫌だった。
休みは月に2日(第一及び第三日曜)、保険も補償も無く、給金はスズメの涙だった。
しかし、ここの大将のテレビの腕は素晴らしく、電話を聞いただけで現物を見る前に、
故障部品を当てたのである。
私はそれに憧れたのである。
そして、やがて私も修理に行く道中で、故障部品の見当がつくようになった。
私が電器屋さんを辞めたのは、仕事中に「蜂の集団に刺されて屋根から落ちた」ことが切っ掛けである。
胸から上を無数に刺され、顔も変形して腫上がり、目が全く見えないほど酷かった。
しかし、店員の丁稚には何の保障も無く、医者代も自分が払った。

このような訳で、やはり私は「ちゃんとした会社」に勤めたいと思うようになり、就職先を
意識し始めたのである。
これが22歳の秋であった。
従って、私は大学に行っていない。
・・・自分では「社会大学」を出たと云っている。
人間の運とは分からないもので、NECが兵庫県に工場を作るという発表が新聞に掲載された。
その中に「電気技術者・経験3年以上」を1名・中途採用する情報があり、すぐに応募して採用された。
そして私は東京の三田にある「NEC三田事業場」で働くようになった。
しかし、実際に私の仕事場は田園都市線高津駅から徒歩10分の所にある「高砂製作所」であった。
この会社は「直流安定化電源」で有名な所で、かつNECの系列会社であった。
そして高砂製作所では一方で「生産設備」を設計・製作しており、私はその仕事に携わることになった。
これが私が「生産技術」との長い付き合いの始まりであった。
同社は生産設備の中でも、試験機、検査機、制御装置などがメインで、非常に高い技術レベルだった。
ここで私は技術部の「小橋課長」に出合ったのである。
・・・課長は、私の引受け責任者だった。
小橋さんは若手の切れ者「電子回路技術者」で、天才的な設計技術で、同社をリードしている人だった。
同氏の見た目は、目つき鋭く、髭面で、いつも黒いヨレヨレの服を着て、素足に「雪駄履き」だった。
・・・初めて見た時、私は「やくざ」かと思った位であり、通称「熊」で通っていた。
とにかく頭の回転が異常に早く、言葉が非常に鋭いため、若手の技術者はいつも恐れをなしていた。
私も何度怒られたか、計り知れないが、今でも小橋さんを思うと、思わず緊張する。
私は、ここで電子回路技術のほとんどを身体で学んだのである。
その意味では、小橋さんは、私が唯一尊敬できる社会人の先生で、感謝しても、し切れない。
(なお、小橋さんは定年後故郷の岡山にて「神官」をされておられる)
  ・・・人生さまざまである。
このように、私は偶然、高砂製作所で働き、そして「小橋さん」の薫陶を受けた。
僅か、1年足らずの短い期間であったが、この期間が私の技術の基礎を作ったのである。
・・・もし、このチャンスがなければ、現在の私は無いし、当然テクノスジャパンも存在しない!

そして、いよいよNEC兵庫で仕事を始めるのであるが、これは(その2)で書きたい。

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