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社長のコラム『風の見える朝』

No96. さんまい

投稿日:
投稿者:
大西秀憲
お菓子が入った大きなお盆を持ったおじさんが、前に出てくると子供達は廻りに群がった。
子供達はお菓子を貰うために集まってきたのである。
おじさんは、すぐには配らず、十分な時間をみて子供達を「じらして」から配り始めるのだ。
この時のおじさんは「王様」のようで、子供達は王様に仕える召使のようであった。
何しろ、どの子供にどれだけお菓子を配るかは、全ておじさんの「胸三寸」である。
子供にすれば、誰よりも自分が多くのお菓子を貰いたい。
これは至極当然の心理である。
「こらこら、ちゃんと並ばんかい!、順番順番!」などと云いながら子供達を御するのだ。
子供達も、我先にと云う行儀の悪い子は居なかった。
ただ、要領の良い子はいつの時代にも何処にでも居る。
右手で貰って、また左手を出して2回貰う子供も少数居た。
お菓子を貰った子供達は、何事も無かったようにすぐその場から散る。

以上の情景は何と思われるだろうか?
実は昔の田舎の「葬式」のひとコマである。
昔と云っても、昭和20年代から30年代であるから、約50年ほど前のことである。
配るお菓子は葬式のお供え物である。
現在のように物が豊かな時代ではなかったが、それでも葬式にはお供え物に気を張った!
そのお供え物のお菓子を葬式終了時に配った(振舞った)のである。
現在の感覚では信じられないだろうが、お菓子は高級品であった。
と云っても、現在の美味しいお菓子とは全く比較にならない、不味い「煎餅」の様な物だ。
それでも当時の子供達は日常、お菓子を食べることなど出来なかった。
売っていないし、お金も無いから買うこともできない。
だから、葬式で振舞われる「お菓子」は子供達にとって「夢」のような物なのであった。

お菓子が振舞われる場所は「さんまい」と云った。
私の生まれた所は「火葬」であった。
葬式は家でするが、火葬にする場所まで大勢が一列縦隊になって進んだのである。
「青竹」に吹流し、「しきみ」、「六地蔵」、「お供え」などなど持つ人の役割があった。
縦隊の真ん中は「輿」である。
輿は「棺おけ」を運ぶ運搬車であり、複数の人が家から火葬場まで担いでいった。
輿を担ぐ人を「輿係り」と云った。
  ・・・現在でも田舎の葬式には形だけの「輿係り」が「白い着物と袴」を着て棺を持つ。
輿の「しつらえ」は立派なもので、見事な彫刻が施されていて、尊厳があった。
要するに、亡くなった人を乗せて「西国浄土」へ運ぶ、最後の乗り物なのである。

「さんまい」には広場があった。
広場の一角に「石の台」があった。
この台の上に「輿」を置いて、最後の儀式が行われた。
  ・・・現在、斎場において行われている、最後のお別れと同じである。
因みに、葬式に使う「輿」は「さんまい」の広場の一角にある小屋の中に置いてあった。
また、どう云う訳か広場の周りには「多くの桜」があり、春は見事であった。
だから村の大人達は「どうせ死ぬなら春がエエなあ!」といつも言っていた。
「さんまい」に来た子供達は、最後の儀式が終わるまで、全く騒がずに待っていた。
そして、いよいよその時がきたのが冒頭のシーンなのである。

私は「さんまい」がどのような漢字を書くのか解らない、またそれが方言かどうかも不明だ。
ところが随分以前に「水上勉」さんの小説を読んでいると、そこに「さんまい」が出てきた。
それで私は「さんまい」は標準語だったのか!と思ったりした。
しかし考えてみれば水上勉さんは確か「福井県嶺南」地方のお生まれだったと思う。
ならば、兵庫県から近いから一部近畿地方の方言かと思ったりした。
昔の年寄りは「はよ、さんまいに行きたいワ」が口癖だったが、要は死にたいと云う事だ。
「さんまい」は人生の幕引き場所であった。

昔の村は「村毎」に火葬場を持っていた。
特に私の村では、なぜか?村に2箇所の火葬場があった。
  ・・・1箇所は私の母方の持ち山にあり、もう1箇所は私の家の持ち山にあった。
火葬場と云っても、地面に穴を掘って石垣で補強しているだけのものである。
この穴に十分な「藁」を敷き、更に木を井桁に組んでその上に棺を置き、更に藁で覆う。
要するに、藁の厚い層を作って、火が逃げないようにして温度を上げるのである。
ところが、これが中々難しく、簡単には焼けないのである。
だから親族が交代で夜中に焼き作業に行くのである。
これは実に大変な仕事で、人をきれいに焼く仕事は非常に難しい!
匂いも激しいが、青白い火が出て、余程肝が据わっていないと、一人では出来なかった。
必ず夕方に火を付けるが、燃え始めると村中に強烈な匂いが漂った・・・
ともかく親族が(つまり素人が)朝までかかって一応全てを焼き、骨にするのである。
酒をあおりながらやっていたが、大変な役割であり、今の人に中々出来ないだろう・・・

このような葬式風景が私の村では昭和46年まで続いた。
この最後となった村の「さんまい」での葬式が、私の母方の祖母(97歳)であった。
これ以降、町共通の斎場が完成して、全ての火葬がプロによって行われるようになった。
それと共に、家で行われる葬式で「お菓子」が配られることも無くなった。
いつの間にか、田舎も豊かになったのである。

「さんまい」の桜満開の中の「お菓子配り風景」が、今でも(昨日のように)目に浮かぶ。

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