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社長のコラム『風の見える朝』

No85. 橋本のしんさん

投稿日:
投稿者:
大西秀憲
昔は本当に人が良くて誰からも好かれた人がいた。
おそらく全国どこに行っても、そこには「誰からも好かれる人」がいたと思う。
ここでは「しんさん」について書く。
「しんさん」は人の名前である。
もちろん、しんさんはとっくの昔に亡くなった人である。
最近ふと、この人のことが頭に浮かぶようになった。
それはたぶん、最近の悪いTVニュースと私の意識の中で関連があると思う。
「数人の人が」横に並んで、一斉に頭をさげてお詫びをする映像が頻繁である。
皆、神妙な面持ちで頭を下げているが、おそらく誰も心では悪いと思っていないだろう!
このような人達を見ると、余りにも「しんさん」との差が大きすぎるのだ。
「しんさん」は絶対に悪いことのできない人だった!

しんさんは私の隣村の「あきんど」だった。
姓は「橋本」さんで、名前はたぶん「新太郎」ではなかったかと思う。
城下(じょうした)小学校が我々の学校であったが、しんさんの店は学校の前にあった。
小さな小さな店で、文房具などを売っている商売だった。
学校と店の間には「県道」が走り、道から一段低い所に、幅1m程の川が流れていた。
その川の「小さな石橋」を渡ると、しんさんの店があり、そこは道から約5m程だった。
店と云っても小さな木造で、子供が数人入ると一杯になる程で、多分四畳半位だったろう。
そんな小さな店だが大層繁盛していた。
他に店が無いことも確かであるが、それ以上に「しんさんの人気」があった。

老人から小さな子供達まで、地域の全ての人が「しんさん」と呼んだ。
私も小学校の時には、迷うことなく、そのように呼んでいた。
学校帰りの子供達は「自転車のしんさん」を見つけると大声で一斉に名前を呼んだ。
この時のしんさんの応答が子供達の人気の秘密だった。
しんさんは、わざわざ自転車を止めて降りてから、ニコニコしながら子供に近づいた。
「ぼん」または「じょうちゃん」と、どの子供にでも、そう呼んだ。
頭をなぜたり、優しい言葉でやりとりをした。
坂道で会ったときに、しんさんの自転車を押すと、何度も何度も丁寧にお礼を言った。
そして、必ず「あめ」をサッと取り出して、子供達にくれたのである。
「しんさん」の人気の秘密は、ここにもあった。

今から思うと凄いことだと思うが、しんさんは実に頭の良い人だった。
それは「子供の顔と名前」を記憶していたことである。
その地域の大人の顔と名前を記憶しているのは、自然の成り行きである。
しかし子供の顔と名前を覚えるのは非常に難しい。
しんさんは「○○のぼん」と、どこで会っても名前で呼んでくれた。
小学校の在校生は約500人だったので、これは凄い努力と能力である。
それだけ、いつも多くの子供達を真剣に観察していたのであろう!
大人から名前で呼ばれるのは、子供にとって嬉しかった。
何か、一人前の扱いを受けた気持ちになった。
この「技」も「しんさん」の人気の秘密であった。

「しんさん」はいつも「まえかけ」をして、わら草履で足袋(たび)を履いていた。
このまえかけは厚手の丈夫な物で「造り酒屋」の名前が書いてあった。
「まえかけ」にはポケットがついていて、ここに小銭や財布が入っていた。
しかしこのまえかけも年代物でよく使い込まれて、擦り切れているところもあった。
濃い紺色のまえかけをして、キリッと紐を腰で結んだしんさんはカッコ良かった!
「まえかけ」は、やはり「あきんど」のシンボルであり、一番似合う。
この格好で、いつもニコニコして愛想よく、優しく、何より「誠実」であった。
そして「しんさん」は実に綺麗な「船場言葉」を使った。
・・・船場は大阪の商いの中心地である。

実はしんさんは、大阪で店を持ち大きな商売をしていた「旦那衆」だったと聞いた。
・・・それは私が親から聞いた。
未だ子供の時に大阪に出て丁稚奉公をして商いを覚え、そして独立して店を持った。
・・・おそらく血のにじむような大変な苦労だったと想像できる。
しかし大東亜戦争時の大阪空襲で家と店を焼かれ、故郷に疎開してきたのである。
やがて「しんさん」は醤油販売の商売を始めた。
しんさんの商売はユニークで、地域の家一軒一軒をくまなく廻り、醤油を置いていく。
そして、次に廻った時に、減った分だけ「継ぎ足す」のである。
・・・昔は「素焼きの瓶」に醤油が入っていた。
要するに、瓶にいつも満杯の醤油を入れて廻るのである。
しんさんは「瓶を振って」チャプチャプと云う音を聞いて、減りを確かめたのである。
やがて、醤油は瓶から一升瓶に代わったが、商いのやりかたは同じであった。
・・・昔の家は土足で入れる土間に醤油が置いてあったので、これが可能だった。
家の主婦が居ようと居まいと、しんさんは醤油置き場に自由に出入りできた!
考えてみると、これは実に凄いことである。
誠実な人柄と、強い信頼関係がないと、このようなことは絶対に出来ない!

「醤油の宅配」をしながら、しんさんは家の一部で「文房具屋」をしたのである。
おそらく、時が来たらもう一度大阪に戻って、商いをしたかったのでは?と思う。
しかし、その内年月が過ぎ、地域で「商権」が出来上がった。
・・・それはそれなりに、安定した商売であった。
内心、忸怩たる思いと、悶々として悩みに悩んだ時期があったと思う。
ついに「しんさん」は地域で生きる決断をした。
そして、息子に店を譲り、息子は大きな店を建て、商売の対象を拡大した。
息子の代になってからも、しんさんは相変わらず、自転車で醤油の商いを続けた。
よほど、商いと人が好きだったのだろう!
「晩年」もしんさんは絶大な人気があった。

「しんさん」が亡くなったのは、定かでないがおそらく40年ほど前だろう・・
「フと」した時に「しんさん」の姿が浮かぶのは、私だけでないと思う。
本当に誠実な、温かい、人間味溢れる、そして凛とした立派な人であった!
「ばれるまではのらりくらり」、事がばれると「並んで一斉に頭を下げる」面々。
最近の、情けない経営者を見ると、余計に「しんさん」が懐かしく思える。
昔の日本には「しんさん」のような人が沢山いたのである。

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